死者たちの「戦後」
辺見じゅんさんに聞く
生と死の痛み 語り継ぐ
恐ろしい60年の断絶
北国の山河はろけき父祖の地に木の葉蝶きて地に触れて飛ぶ
 
 戦争のなかの生と死を見つめてきた作家は歌人というもう一つの顔を持つ。父の源義氏は折口信夫門下から俳句へ向かい、弟の角川春樹氏も俳句を選んだ。伝統短詞文芸は身近な表現ではあった。
 生まれ育った富山は万葉集の編者の大伴家持が国司として五年間いたところで、二百四十首も詠んでいる。国文学者の家庭環境と、そうした風土の下で万葉集は子供のころからそらんじていた。
 「だから私にとって歌は魂の器であり命の器です。
そして歌とノンフィクションの接点を間われれば、相手との対話を通して人間の生と死に思いを寄せる民俗学の方法ということかもしれません」
 父母や家族、故郷、恋などさまさまな短歌の主題の中でも、大きな比重を占めるのは人の「生と死」である。第一.歌集の『雪の座』は故郷の富山と亡くなった父への思いを込めてまとめた。
 「挽歌と相聞は万葉の時代から一緒で表と裏の関係にあります」と辺見さんはいう。死者を悼むことは深く人を愛することでもある。父という身近な個人の死をきっかけに戦争の中の生と死という大きな主題が広がっていった。
 どうしてこんな遠くまで行かなければならなかったのか。為政者たちは兵士の命をどう思っていたのか。そんな思いも当然ある。
 しかし戦争を体験した世代が次第に亡くなり、六十年を経たいまその体験を語り継ぐ糸は途切れかかっている。
 戦前と、戦後の高度成長期までと、それ以降。辺見さんは昭和という時代をその三つに区切って、日本人と豊かさがお金を基準にしたものに変わっていったとみる。
 「だからこそ戦死者の声を通してこの六十年を振り返ってほしい。平和を欲するなら戦争の真実をもっと知ってほしい。イラクへの派兵にしてもあんな決め方でいいのかという思いがある。その断絶が非常に怖いと思うのです」
生命とは。戦後とは。死者たちの問いは、いま重い。
 (編集委員 柴崎信三)
日本経済新聞 2005年8月12日 夕刊
 
死なざりし父の戦後よくろがねの水にまひまひ吹かれてゐたり
 
 沖縄海戦へ向けて特攻を命じられた戦艦大和が米航空部隊の攻撃を受けて東シナ海に没したのは昭和二十年(一九四五年)四月七日である。
 三千人近い乗組員のうち、生存者は一割に満たない二百六十人余りだった。
 東京駅がほぼ収まる二百六十三メートルの全長、十八階建てのビルに相当する高さの巨艦は近代装備の粋が施された。
 「太平洋戦争は大和に始まり、大和で終わった」。巨大な不沈艦の神話と運命をともにした若者たちに向きあうノンフィクション『男たちの大和』は父、角川源義氏の戦後をたどるなかで生まれた。
 「赤紙召集の二等兵で出征した父が戦後、自分の人生は戦争の死者たちの犠牲の上にあるというのを聞いて、その伝記を書こうと思って出合ったのが『大和』でした」
 民俗学の調査で西日本各地を歩いていると「主人は大和で戦死した」といった女性の声を聞く。調べてみると乗組員のほとんどが二十代前半までの下士官兵たちだった。
 エリートの物語ではない。
百十七人の生存者や戦没者の遺族から取材を重ねた。肥大した軍部の「造船の野心」と精神主義の犠牲となって「明日の日本の捨て石に」と家族や恋人を思いながら無念に逝った若者たちの痛みを戦後に伝えたいと願った。
 追いつき追い越せで日清、日露戦争に勝ったあと、ロンドン軍縮会議で日本の艦船保有が抑えられる。「大和」建造はそこに始まる。
 艦隊中心から戦争の形が転換するさなかでも巨艦の悲劇的な最後を予測するものはなかった。世界一の戦艦に乗る誇りを抱いて運命をともにした男たちの思いを、時には母に、時には妻に、時には恋人となって聞き続けた。
 「だから六十年後のいま、父や母や妻や恋人を守るために死んでいった彼らがなぜ赤紙を拒否できなかったのかと問うことはできません」
 「大和」を人間の物語として次世代に語り継ぐためにその映画化がすすんでいる。
 
底紅のやさしさ頒ち木槿咲くたたかひに死にし者のこゑ澄む
 
 戦場で死んだ人々の声を探りながら、戦後の日本人の心を問う辺見さんの仕事は、南方の密林や酷寒のシベリアの収容所から彼らが家族や友人にあてて書き残した手紙や遺書、日記の発掘に向かう。
 〈君達はどんな辛い日があらうとも人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ〉
 抑留されたハバロフスクの収容所で死去した山本幡男さんは過酷な環境とソ連軍の厳しい監視をかいくぐって、のちに祖国に帰還する仲間に口述で妻や子供に宛てた遺書を残していた。
『収容所から来た遺書』は三十三年後、戦友によってそれが遺族のもとに届けられるという、感動に満ちた物語である。
 『昭和の遺書』はニューギニア、ガダルカナル、フィリピンなど激戦の南の島で散った人々が家族や友人に宛てた手紙や日記など三百七十点を集めてまとめた。国家の大義のもとで逝った人々の祈りと豊かな日本の現在が鮮烈な対比のなかに浮かび上がる。
 「十六歳の少年の幼い方言で書かれた手紙を読んで文芸評論家の佐伯彰一先生が『この手紙にかなう文学作品があるだろうか』と言われた。電話、ファクス、メールなど新しいメディアの言葉は結局消えてしまう。それにくらべて記録として残る手紙の言葉の強さを実感しましたね」
 おれたちの死は何だったのか。無駄ではなかったか。手紙から伝わるのは、そんな若い死者たちの声である。