「死者の声」真向かう大切さ
彼が各地の収容所で開いた句会も、「美しい日本語を忘れぬために」の心から生まれ、亡くなる寸前までソ連製の薄いザラ紙のノートに日本人としてどう生きるかを書き続けていた。そして死の一カ月程前、一晩で4500字の遺書を書く。書いたものがみつかればスパイ罪として、営倉送りや刑が加重される。ある軍医は死者の名をメガネのつるに隠していたことが発覚し、僻地に行かされた。むろん、ノートも遺書もソ連側に没収された。山本さんの遺書の、次のような言葉に注目したい。
 「日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれた道義の文化−人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ」
 この遺書は、同じ収容所の仲間たちの分担により、「記憶」という想像を絶した手段により遺族に届けられたもので、最後の遺書は、昭和六十年の夏であった。
 山本さんが亡くなったのは、昭和二十九年八月二十五日。享年四十五歳だった。
 シベリアの地で遙かに日本や家族を想いつつ祈願した「世界文化再建」の道は、今日の私たちの国の実状とはあまりに隔たっていないだろうか。一人の男が問いかけた命題は、いまなお、重いものに思えてならない。
 戦争体験の記憶が歳月とともに失われつつある今日、現在の私たちの平和が多くの無名の死者たちを土台に成り立っていることを忘却してはならない。
 死者たちの声に、私たちは耳を傾け、真向かうことが大切に思えてくる。
(2005年8月14日 産経新聞)
 戦後六十周年記念作品として、トム・プロジェクトの企画と制作による「ダモイ」が東京の四ツ谷をはじめ、八月十九日には栃木県総合文化センターなどで次々と上演されることになった。原作は拙著『収容所から来た遺書』である。
 主人公の山本幡男役は、映画「蒲田行進曲」や舞台「こんにちは、母さん」などで高く評価された平田満さんが演じている。私も八月のある日、四ツ谷で上演されたその作品を観に行き、あらためて感慨を深くした。
 私がシベリ、アで息子を死なせたという老女に会ったのは今から三十年ほど前、佐渡の外海府を訪れたときであった。
 この外海府の願という集落に、シベリアが見えるというさい岬がある。岬には「賽の河原」があり、大小の地蔵や石積みの塔が並んでいた。土地の人たちは、この河原に来ると、死者に会えるという。
 「おら、冠ちゃんがシベリアで死んだという知らせが届いたときも、一人でこの河原に来て泣いたちやのう。こうやって地蔵さまに花コをあげ、石さ積んどると、兄ちゃんに会える気がするのだちや」
 私の故郷富山にも、夫がシベリアで亡くなった叔母がいた。
 「父ちゃんな死んだシベリアに行きたいがやれど、まだ行けんちや。お迎えの来る日までにいっぺん行って来たいがや」
 当時の叔母は七十歳。男まさりの気丈な人で、三人の子女を商売しながら育てた。その叔母が夫の死んだときの心境を初めて語ってくれたのは、親類の法事に出席したときであった。
夫の死は昭和二十六年ごろのことで、そのときの悲しみや嘆きは尋常ひとかたならぬものがあり、畳の上をころげまわって号泣したという。その後は決して泣くまいと覚悟してきたが、子供らが巣立ったころからしきりに思い出され、まだ涙の出てくる二つの泉が残っていたのかと思うほどで、「切ないちやのう」と、語っていた。その二年後、叔母がお迎えが来たのか、心臓発作であっけなく亡くなった。
 昭和二十年八月十五日の日本の敗戦で、旧満州や樺太などから極寒のシベリアに抑留された日本人は六十万人余。そのうちの七万人近くが望郷の思いを抱いたまま、飢えと重労働で死んでいった。死者は白櫨の木の根元に穴を掘って埋められたので、「白樺のこやし」と呼ばれ、死亡年月日も氏名も記されなかった。白樺は、死者たちの墓標だった。
 そうした人々の中に、島根県隠岐出身の山本幡男さんがいた。彼は昭和十九年夏に二等兵として召集され、新京に妻や母、四人の子等を残して出征した。満鉄調査部やハルビン特務機関にいたことなどでソ連の国内法五八条で裁かれた。ソ連に対するスパイ行為があったとされ、二十五年の刑を受ける。ソ連が自国の法律によって日本人を裁いた理不尽さは、もっと追及されてよいと思う。
 私がこの山本さんに惹かれたのは、非凡なる凡人であったことにある。
 逆境に置かれながらも決して絶望的にならず、仲間を励まし、生きる勇気と誠実さをつら抜いた姿勢に感動した。