昭和二十年の敗戦の年、わたしは六歳であった。戦時中のことは夢ともうつつともつかない朧(おぼろ)な映像が明滅するだけだが、八月十五日の玉音放送が終わった後の祖母の反応は鮮やかに記憶に刻まれている。黙然と座敷から立ち去った祖父とは対照的に、祖母は孫のわたしを抱きしめ、身体中に嬉(うれ)しさを滲(にじ)ませて叫んだのである。
「これであんたらの父ちゃんは、じきに帰ってくるちゃ」
その夜、祖母は家中の電灯をともした。敵機来襲にそなえて暗幕を張りめぐらしたそれまでの灯火管制の日々とはうって変わり、家の中に光があふれた。今まで忍の一字で祖父の癇癪(かんしゃく)に耐えてきた祖母が、明るく灯のともる家の中で溌剌(はつらつ)と立ち働くのを見ているうち、幼いわたしにも言いしれぬ解放感が伝わってきた。
「父ちゃんな、帰って来たちゃ!」
祖母の声が家の中に響き渡ったのは、それから二か月余り後のことであった。汚れた草色がかった復員服の父はわたしに日をとめると、柔和な微笑をこぼした。
父、角川源義は昭和十八年一月八日に召集を受け、金沢の輜重隊に二等兵として入隊した。父は国文学者であり歌人でもあった折口信夫(釈迢空)の門弟で、中学の国語の教師をしながら中世文学の研究者だった。召集を受けるにあたって、その覚悟を記した文章がある。
「大学を出た私たちの一番大きな任務は、醜(しこ)の御楯(みたて)として、海を渡らねばならぬこと、この島国へ行きついた私たちの祖先は妣(はは)の国へ、国のまもりとして征(ゆ)かねばならぬのである。 (略) しかして私たちの期すべきは生還であってはならぬはずである」
死を覚悟して入隊した軍隊生活がどのようなものであったかはあまり語りたがらなかった。
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雨いつか
雪となりゐるくらがりに、
病馬をまもり、
立ちてゐにけり |
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源義 |
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学問の世界しか知らぬ不器用な人であったが、このときすでにまもるべき国家が病馬と成り果てていることを悟り、茫然(ぼうぜん)自失たる思いにかられたのだろうか。
だが、復員した後の父の立ち直りは早かった。帰還したのは敗戦の年の晩秋の頃だったが、雪が降り出し、やがて正月を迎えた時には、もう郷里の富山に父の姿はなかった。上京して、練馬区小竹町の借家の応接間を事務所としてたった一人で出版社を始めたのである。
当時の父に資金があったはずはないのに、学者の道を断念し、出版という事業に突き進んでいった。昭和二十一年二月には最初の本となる佐藤佐太郎歌集『歩道』、八月には堀辰雄編集の「四季」を復刊すると、同時に『堀辰雄作品集』(全八冊)の刊行を開始し、翌年には毎日出版文化賞を受けている。
戦いに敗れ、国は貧しい時代ではあったが、水を張った田んぼに一本一本稲を植えてゆくように、素手で一冊一冊本をつくることができた時代だったのだろう。その頃、出版にかぎらず、種々な分野に乏しい元手と強い信念をもって、未来へのちいさな一歩を踏みだした多くの人々がいた。湧き水の一滴がやがて大きな流れとなるように、個々のちいさな一歩が結集されて大な歩みとなり、日本は豊かに蘇(よみがえ)った。
そして祖母が暗幕を取りはらい家中に皓々(こうこう)と灯りをともした日から六十年が経つ。
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しかし、今ではあのキラキラ輝いていた希望の光が幻影のように思え出したのは、わたしだけではあるまい。イラク戦争、自衛隊の海外派遣、北朝鮮の拉致問題、テロリズムと、再び窓に暗幕をかけ灯りを消さなければならない日がいつ来てもおかしくない気配である。野蛮が横行すれば文化は枯れる。わたしは父が名著を廉価版で復刻するための文庫本を始めるにあたって書いた文章を時折、思い起こす。
「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」
この言葉は父の出征中の歌と重なり合う。
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雨いつか
雪となりゐるくらがりに、
病馬をまもり、
立ちてゐにけり |
病馬とは文化を失った国家の謂だとわたしは理解している。病馬は倒れ、廃塊(はいきょ)と化した日本の大地に文化の苗を植えつけたいという思いを抱いて父は帰還した。そして出版社を始めたのだと思う。
父たちの世代が手植えた苗の志はわたしたちに受け継がれているだろうか。再び日本を病馬としないためにわたしたちは今、なにをしなければならないだろうか。そんなことを、この頃しきりに考える。
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