YAMATO生んだ戦争の体験談 (聞き手・増谷文生)
 父は、後継ぎに考えていた長男の春樹には早くから帝王学を教え込みました。「お前は後ろに乗る人間だ」と車の運転さえ許しませんでした。反対に次男の歴彦はまったく自由に育てました。そして、長女の私には最も甘かった。
 小中学校時代は、私が書いた作文や詩をまとめ、きれいに表紙を付けて本にしてくれました。誕生日には毎年、本を。フレゼントしてくれました。「チボー家の人々」や「おらんだ正月」。ときにはわざわざ翻訳者のサインまでもらってきてくれました。
 父の書斎には、私が興味を持っていた民俗学関係の本がたくさんありました。しかし、高校生になると、「全部おれが苦労して集めた本だ。
読みたかったら、古本屋を歩いて探せ」と、貸してくれなくなりました。当時は不満でしたが、読みたい本は安易に借りたりせず、自分で探すことが大切だ、と教えようとしていたのでしょうね。
 「男たちの大和」を書くきっかけは、父の死でした。末期の肝臓がんで入院していた2ヶ月の間、父は初めて、自分の戦争体験をきちんと語ってくれました。雪の降る中病気の馬を看病した話、戦友の多くが戦死し生き残った負い目を感じていること・・・・・。一方で、「嫌なこともたくさんあったけど、紛れもなくおれの青春だった」とも言っていました。
 「父が生きた時代をもっと知りたい」。
父の死後、私は、強く思いました。民俗学の取材のために、たまたま岡山県の山奥に住む年老いた女性を訪ねたのは、1978年ごろのことです。そこで見せていただいたのが、戦艦大和の乗組員だった息子からの最後の手紙でした。「お母さん、どうか私のことはけっしてけっしておわすれください、さよなら」。大和の生存者や遺族への取材は、このときから始まりました。
 父が戦争体験を語ったのは、ちょうど私が初めての本を書きあげた直後のことでした。私をもの書きとして認め、「平和のために戦争の実態を語り継ぎなさい」と、後を託したのだと思います。

辺見じゅんさん  |  ホーム (朝日新聞 2005年12月18日) (2006.02.12)