辺見じゅん さん
朝日新聞の ニッポン 人・脈・記 に辺見じゅんさんの記事が掲載されました。
早咲きに送られて出撃  撃沈から生還、満開に泣く
 戦艦大和がブームだ。
 昨年末、映画「男たちの大和」が封切られた。
撮影のため広島県尾道市に作られた実物大セットには、これまでに70万人が訪れている。
 61年前の4月5日。
 大和に出撃命令が下る。生還を期さない沖縄への出撃は「水上特攻」と呼ばれた。2日後、米軍の攻撃を受けて沈没。乗員3千余人 の9割以上が死んだ。
 生還したひとりに吉田満がいた。東大から学徒出陣。戦後、「戦艦大和ノ最期」を著した。
 それによると、出撃前に瀬戸内海で訓練中、期せずして艦上で「桜、桜」と叫ぶ声が上がった。  
 吉田の記述はこう続く。
 「早咲キノ花ナラム 先ヲ争ツテ双眼鏡二取付キ、コマヤカナル花弁ノ、ヒト片ヒト片ヲ眼底ニ灼キツケントス・・・桜、内地ノ桜ヨ、サヤウナラ」
 
 ノンフィクション作家辺見じゅん(66)は、映画の原作を83年に角川書店から刊行した。取材中、ひとりの生存者から痛ましい証言を聞いた。
 「出撃する前日、まだつぼみだった桜が、九死に一生を得て佐世保に戻ると満開に咲いていたゆ何人かが花を見て狂ったように泣き叫んだ。
『おれたちが命がけで戦って、みんな死んだのに、なんで桜が咲いてやがんだ』」
 海軍の象徴だと教え込まれた桜が、大和の陣禦鳴魔など知らぬげに咲いている。そのさまが神経をかき乱したのだろう。切ない思いに、辺見は打たれる。
 辺見の桜の記憶も、同じ61年前の4月に始まる。中学教師だった父角川源義に赤紙が来た。生徒の歌う校歌に送られ、満開の桜の下を出征して行った。まだ5歳だったが「芝居の書き割りのように、ありありと覚えています」。
 復員した源義は、角川書店をおこす。無残な敗戦を「軍事力よりも、若い文化力の敗北だった」と痛感していた。「終戦」という言葉を嫌い、辺見が不用意に使うと、「あれは敗戦だ。終戦だなん て簡単に言うな」と怒った。
 「おれの青春は戦争しかなかった」。ことあるごとに口にした源義は75年、くしくも8月15日にがんで入院する。「命綱たのむおかしさ敗戦忌」の辞世をのこして秋に死去した。
 その父の死が、辺見と大和を結びつけることになる。源義の伝記を書こうと当時を調べるうち、「太平洋戦争は大和にはじまり、大和に終わった」ことを知る。真珠湾攻撃の41年12月8日、大和は大艦主義の象徴だった主砲の試射を終える。そして45年、「終戦内閣」の鈴木貫太郎内閣が発足した日に撃沈されたのだった。
 3年かけて、生存者ら117人から話を聞いた。取材をメモした原稿用紙は6千枚になった。
 大和は沈没位置さえはっきりしていなかった。「慰霊さえ出来ない」と嘆く遺族の声を何度も聞いた。「大和の乗員は国に見捨てられている」と思った。このときの思いを詠んだ歌がある。
 
 桜とはまた墓所この国の見捨てし兵が挙手の礼をす

 辺見は85年、弟角川春樹(64)の助力で「海の墓標委員会」をつくり、潜水艇を使って東シナ海の海底に眠る大和を発見する。

 映画の監督は、当初は若手監督の起用が検討されたが、戦争中の空気を知る少国民世代の佐藤純弥(73)に白羽の矢が立った。シナリオも佐藤が担当した。
 映画の中で、負傷して出撃前に大和を降りた兵士を、親友の兵が見舞う場面がある。「おれも行く」と力む負傷兵を親友がなだめるせりふに、良寛の詠んだ「散る桜残る桜も散る桜」を使った。いずれは誰もが散っていくのだi佐藤が少年時代に覚えた言葉だった。
 
 一昨年8月9日、映画の製作発表があった。この日の朝、辺見の母で源義の妻照子が急逝した。

 撮影開始直後の昨年4月、今度は佐藤の妻が亡くなった。「大切なものと引き換えの映画でした」と佐藤。その映画を、これまでに400万人が見た。(福島申二)

辺見じゅんさん | ホーム (朝日新聞 2006年4月3日) (2006.04.12)