渡辺文子さんの「体験談」
お客様の渡辺さんが荻窪中学校の課外授業でお話になった体験談です。

私の体験したことをお話ししたいと思います。

私は当時、名古屋に住んでいました。父と母と小学六年生の姉を頭に七人兄姉の私は三人目で三年生でした。家は料亭をしていました。当時、姉と私と弟三人は家から列車で一時間程のところにある叔母様の家に縁故疎開をしていました。土、日曜日の休みには、みんなで名古屋の自宅に帰っていました。

その日曜日、私達三人は自宅から疎開先に戻るのに、いつものように女中さんに電車に乗る所まで送ってもらっていました。いつもは乗り換えなしで疎開先に戻っていたのですが、その日はたまたま乗り換えしなければなりませんでした。女中さんにも「気をつけてネ。」と念を押され列車に乗せてもらいました。

ところが幼心にどうしても疎開先には戻りたくない一心で乗り換え駅から三人して家に帰ってきてしまったのです。父にはすごく怒られてしまったのですが、三人は、また、一晩でも家族全員、一緒にいられるうれしさになんだか得をしたような気持ちでした。

しかし、その夜のことです。名古屋はじめての夜間空爆にあってしまったのです。近くに軍需工場があったせいでしょうか、突然、空襲警報が鳴り響き、あわてて取るものもとりあえず、急ぎみんな防空頭巾や布団をかぶり、まず、庭にある防空壕に飛び込みました。

その直後のことです。ものすごい勢いで焼夷弾がダダダダーとふり落ちて来たのです。見る見る間に家の裏手から火の手が上がり、廻りが火の海になってきたので、もうここではダメだと思い、母は七人の子供たちをはぐれないように声をかけながら、手を取り合い、火の粉を浴びながら町内の広場にある防空壕に急ぎ向かったのです。

ところが、やっとの事で着いたのですが、今度は全部で二十いくつある防空壕が行くところ行くところみんな一杯でやっと見つかったのが、ひざまで水のあるようなところでした。三月十二日ですので、その水だまりもすごく冷たく、でも、廻りは火の海、「みんな早く入れ!」という声にあわてて押し込まれました。
ガタガタふるえながら身を寄せ合うよりほかありませんでした。中は二十人ぐらい入れたのでしょうか。入口は両側にあり、戸といえば木で作った上に土がのっている程のものでした。

その木の部分がやがてブスブスと燃えだしたのです。そこで、かぶっていた布団などを水につけては母と姉が必死で押さえていました。そのかいあって、片方はつぶれたのですが、やっとなんとか、もう片方は確保できました。

ただ、そんな中、一番下の赤ちゃんは暑そうに息も絶え絶えで、なんとか水をあげたくても水がないので、たまっている水が汚い水とわかっていても、あまりにも、かわいそうでタオルにほんの少し水を含ませ、口に当ててのどの渇きを癒やしてやりました。こんな時に一番辛かったのは大人も子供も勿論ですが、赤ちゃんだったかもしれません。
そして、どれくらい時が経ったのでしょうか。やっと朝になりその防空壕を出てみると、なんと一面が焼け野原・・・ あれだけ二十いくつもあった防空壕が全部つぶれ、助かったのは私達が入った防空壕だけだったのを、ただ呆然と見ていたのを覚えています。あたりは、ぶすぶすとくすぶるような死体などがあり、ともかく目をそらしたくなるような惨状でした。

あまりの恐怖で足もすくんで何が何だかわからぬままで、その間をやっとの思いで抜けて、隣の小学校の避難所を目指して向かいました。今思えば、防空壕も次から次と満員で断られ、やっと入った所がひざ迄ある水、でも、その水があったおかげで助かったこと、本当に奇跡でした。

一方、当時、男の人は空襲になったら、すぐ、みんな消防団として出動していました。隊長だった父は広場にある貯水槽(プールほど)を見つけ消火しようとしたのですが、廻り中どんどん火の海になり迫って来るので「みんな飛び込め!」と言って入り、みんなも熱さに耐えきれず次々と飛び込んでいったそうです。
やっと朝になり、父もいざ出ようと思ったら、そこは縁が今と違い、コンクリートでなく粘土状であったので、つるつると滑り、なかなか上がれなかったそうです。そして、ふと気づくと折り重なるように亡くなっていた方も大勢いらして心苦しくも生きていくために踏み台にして上がらないといけないといった方もありました。

上がったらすぐ、上がった人たちで、今度は何人もの人を引っ張り上げましたが、中にはおんぶにだっこの母子もいて、しかも抱いていた子は非情にもすでに息絶えていたようでした。あたりは、まさに地獄のようで、それはもう胸がつぶれるような光景だったと後から何度も父から聞かされました。

でも、ともかく生き残っているものはみんな必死で助け合ったそうです。その場所だけで百人以上の人が亡くなられたとのことで、後日、そこにはお地蔵さんが建てられたと聞きました。ところで、私たち八人がやっとの思いで隣の小学校の避難所にたどり着いたときには、母は煙で目が見えなくなっておりました。

その時、知人が「太田屋さんじゃないの・・・ ご主人が今、医務室にいらしたヨ。」と声をかけて下さり、急いでみんなでかけつけたところ、父も目をやられていました。父は自分一人でも大変でしたので到底七人も、それも赤ちゃんまでいる子供たちなど、まさか助かっていないと思っていたところでしたので、びっくりし、「よくぞ、ここまで全員揃って・・・本当にありがとう。」と。とてもガンコでワンマンの父でしたが、目が見えない同士抱き合って家族みんなで泣きじゃくりました。

こうして私の家族は自宅、店そして貸屋など、何一つ残らず、すべて焼けてはしまいましたが、本当に運良く全員無事で大きなケガもなく助かりました。
ただ後から考えれば、

・まず偶然とはいえ、あの時、疎開先への戻る際に三人して乗り換え駅から家に帰っていなければ、空襲にもあっていなかったこと。

・そうしたら母もあれほど大変な思いをして七人の子をかかれ、逃げまどわずにすんだこと。

・でも母を含め八人だったから、入る所も見つからず、結局、水のたまった防空壕に入るしかなく、先ほどお話ししたように命拾いしたこと。
などと考えますと、大変複雑な思いが致します。本当に生と死が紙一重であることを実感します。

この日の空襲だけでも想像もつかないほど、すごく大勢の方々が犠牲になられました。

ですから、このような悲惨なこと、戦争が二度とあってはならないと、つくづく身にしみて感じているのです。

あれから六十年も経った今ではみなさんには信じられないことかもしれませんネ。
しかし、今、現在も世界中あちこちで戦争が起きているのです。あなた方が未来もずっと平和でいられることをただただ心より祈るばかりです。

 
渡辺さんのお話を「動く絵本」にしてみました。
お庭のぶどうのお話です。 朝日新聞に掲載された
雪だるまのお話は こちらへ。
七夕と笹のお話はこちらへ お庭のお花をご紹介します。

ホーム  | 素敵な方々 2006.03.19